アスリートの道 田畑真紀選手(スピードスケート)
バンクーバーオリンピックチームパシュート銀メダリスト
北海道勇払郡むかわ町生まれ
スケート人生のはじまり
スケートを始めるきっかけは、小学校のグラウンドにPTAが造ってくれたスケートリンクでした。
そこで全校生徒ほぼ全員がスポーツ少年団に入ってスケートをやっていて、みんながやっているからと私もつられて始めたという感じです。 その小学校のスケートリンクは小さいものでしたが、内側と外側とに分かれていて、速いレーンで走っている上級生を見て「格好いいなあ」という憧れからスケートを始めました。
1年生の時、もう私と同じぐらい滑れるようになった友だちがいて、ある時担任の先生が、「二人のどちらかが今度の町の氷上祭りの大会で優勝する」と予言をしてくれたことがありました。 そして私が1位になり、そのときはじめてもらった金メダルがとてもうれしくて、今見るとそんなに大きなものではなかったですが、当時はすごく大きく感じました。
そのすごく大きな金メダルをもらったことがうれしくて「毎年メダルがほしい!」と、それからスケートを頑張るようになりました。
2年生のときのスケート大会では、個人種目で転んでしまい「ああ、今年もメダルがほしかったのに…」と思っていましたが、最後のリレーが2位で銀メダルをもらうことができました。そういえば、シチュエーションがバンクーバーと似ていますね(笑)。
「来年もまたメダルがほしい!」という気持ちから、学校から帰宅後、スケートのために毎日走るようになりました。 小学校3、4年生のときに南北海道大会で3位になり表彰台に上がった事で、父が私のスケートに火がついて、頑張らせたいと強く思うようになったそうです。
父の考えというのは「とにかく毎日練習をするんだ。1日でも休んじゃいけない」というものでした。私も「メダルがほしい」「スケートで速くなりたい」という気持ちがどんどん強くなっていき、熱心に協力してくれる父のおかげもあり、毎日練習するのが当たり前という考えに自然となっていきました。
例えば家族でどこかに出掛けても、行った先で走ったり、冬に出掛けたら行った先でスケートリンクを探して滑っていました。とにかく1日も休んではいけないのです。
ある年のお正月に雪がたくさん降ったのですが、スケートリンクの管理人さんがいませんでした。そのときは父と2人で雪かきをして滑ったという思い出があります。 「今思うと別に休んでもよかったんじゃないかな」と父と笑いながら話をしています。とにかく1日でも休んではいけないので、その当時は毎日練習をしていました (笑)。
私の座右の銘は「継続は力なり」です。毎日欠かさず走ったりスケートに乗るということをさりげなく父がさせてくれたという感じでした。 その習慣が今でも基本の姿勢として続いていて、それが自分のベースです。 高校生のときに下宿生活で実家を離れたのですが、そのときもやはり毎日自主トレーニングを習慣にしていました。
少し前後しますが、小学校の時ライバルが7人程いて大会ではいつも最初から全力でいって、最後に抜かれて6番か7番でした。 ずっと悔しい思いばかりでしたが、6年生の最後の一番大きな苫小牧選手権という大会で、ライバルに勝って優勝した時はとても嬉しかったです。私はもともと自信がなく、引っ込み思案だったのですが、スケートをやることで自分に自信が持てるようになってきました。
その当時、隣町の早来町に橋本聖子選手(現スケート連盟会長)がいて、世界で活躍する姿や、カルガリーオリンピックでの滑りに感動し、自分もオリンピックに行ってみたいと思うようになりました。 また、中学校へ行ってもスケートを続ける理由を考えた時、自分の人生でひとつのことを極めていった時に、自分の能力はどのぐらいあるのか?試したい、それがスケートなら出来るかもしれない、隣町の橋本聖子さんが世界で勝負しているんだから、私も出来るかもしれないと思ったのです。
初めてのリレハンメルオリンピック
最初のオリンピックは、リレハンメルオリンピックでした。
橋本聖子選手(当時)が所属していた富士急行という会社に入社し、一緒に練習をして、人間性や練習に取り組む姿勢を学びました。私にとって本当に貴重な時間であり、とても勉強になりました。 私は「陸上トレーニングは誰にも負けない!」という自信があって会社に入社しましたが、唯一全部勝てなかったと思うのが橋本聖子選手(当時)です。
当時、リレハンメルは私にとって初めての夢のオリンピックでした。 本番が近づくにつれて地元からたくさんのメッセージが届きました。それを1枚1枚読んでいくうちに「とにかく今の自分の力を出し切らなきゃいけない」と思いながら滑り、オリンピックの会場で16位でしたが、自己ベストが更新できました。 滑った感じも、とてもいい滑りができたと思いました。そして「やはりオリンピックは自分の力を引き出してくれるところなんだ」という印象で終わりました。
そのとき、事前のワールドカップ等を一緒に回った山本宏美選手(当時)が5,000メートルで銅メダルを取りましたが、彼女の競技に向かう姿勢は、一緒に練習してく中でとても勉強になりましたし、その点では私はまだまだだなと感じました。だから次のオリンピックは、さらにやるべきことは全てやってリンクに立ちたいな、という思いで長野オリンピックに向き合いました。
長野オリンピック直前に骨折?!
そして長野オリンピック向けて練習を始めたのですが、自分の弱い部分が出てきてしまい悩みました。練習は人一倍行うほうではあるのですが、世界に勝つための精神力を、どうやったらもっと強くしていけるのだろうと、自分の中で葛藤がありました。
しかしそのような中でも、自分のモチベーションを上げたり、練習ですごく追い込めるようになってきました。そして世界で入賞できるようになったり、日本でもトップになることができるようになったりしてオリンピックへの出場も決定しそうという12月のオリンピック選考会の公式練習のときに、転倒して左足首を骨折してしまいました。全治3カ月でした。
「ああ、もうオリンピックは無理だな」と、すごく落ち込みました。 その時の自分の目標は長野オリンピックでしたので、その目標がなくなってしまったことが、涙も出ないくらいショックでした。その様子をみた監督が「どうした?」と声をかけてくれたときに一気にブワーッと涙が出てきてしまいました。そして監督に「目標がなくなっちゃったんです」と言ったら、監督が「そうか…。全治3カ月だから長野オリンピックは間に合わないかも知れないけれど、その次の世界選手権には間に合う。そこを目標にやればいいんじゃないのか」とこたえてくれたので、新たな目標ができました。そしてそれに向けて頑張ろうと、一気に元気になりました。
そこで何とかしようと思って、リハビリ室に入り浸りになりました。リハビリができないときは自分の会社の部室に通いながら、とにかく1日中左足首を使わないトレーニングをしていました。 みんなはオリンピックに向かっているかも知れないけれど、自分にとっての長野オリンピックはもう終わってしまったので、このトレーニングが自分の長野オリンピックなんだと言い聞かせてトレーニングに励みました。そしてそんな中でもチームには本当に頑張ってほしいという気持ちでいっぱいでした。
とにかく世界選手権を目標に頑張っていたのですが、ふと「完治は3カ月でも全然練習もできていないし、氷の上でも滑っていないのに、いきなり世界レベルで滑れるかな」という不安が襲ってきました。そこで監督に「世界選手権はちょっと難しそうですが…」と相談したところ、監督が「そうか。そしたら、3月にカルガリーのファイナルがある。そこを目標にしたらいいのではないか」と言われたので「じゃあ、今度こそ何とか間に合わせよう」と、リハビリや、できる限りのことを3月に向けてやりました。 そしたら、また、その3月のカルガリーが近づくにつれて、不安になってくるわけです。「そこでレースすると言ったけれど、レースなんてできるかな」という気持ちになって、監督に「やっぱりレースは無理です」と言ったら、「別に出なくてもいい。滑るだけでいいから」と言われて、一緒にカルガリーに連れていっていただき、氷上で滑らせてもらいました。
そして帰国後、4月からみんなと同じ陸上トレーニングのスタートを切ることができました。監督がそういう流れをつくってくれたのです。 後に「なぜあのとき、ああいうふうに言ったのですか?」と聞いてみたのですが、「あのときに分かった。多分、田畑は目標があればいいんだ。目標を持たせてやりさえすればいいんだ」と言っていました。確かに私は「そうかも知れない…」と思いました。目標があればいいんだと、それを監督は分かっていたのです。 でも監督は「もうお前はここは駄目だから、こっちにしなきゃいけない」ということは言いませんでした。精神的にショックを受けていただけなので、その段階を終わって自分で気付くまでじっくり待っていてくれました。その都度、自分が気付くまで待ってくれて、それから、次への目標をつくってくれました。それが私にとってはすごくありがたいことで、この辛い時期を乗り越えることができました。
ソルトレイクシティオリンピックへ
長野オリンピックが終わり、次のソルトレイクシティオリンピックに向けて、とにかく長野の悔しさを晴らすには、スケートを滑るだけでは駄目だと思っていました。
世界で勝って、そして強くなって、はじめてそのときのつらさを乗り越えられると思い、とにかくそれをモチベーションにしていました。 そして良いタイムが出せるほど強くなっていきました。ちょうど世界で表彰台にも上がるようになったのがその時期からです。
そしてオリンピックの直前のワールドカップでも表彰台に上がっていました。私は1,500メートルを狙っていましたが、狙ってる種目じゃない3,000メートルで3位になりました。私の中で3,000メートルは世界との差があると分かっていたので、メダルを狙える位置ではないと思っていたのです。さらにまた直前になって世界最高記録も出しました。 だから、その時は「本当にもしかしたらいけるかな」という気持ちでオリンピックに臨みました。
そしてソルトレイクシティオリンピックでは、最初から思い切った自分らしいレースをして、6位入賞という形になり「やっぱり世界で勝つぞ」という気持がさらに強まっていきました。
トリノオリンピックへ
トリノオリンピックへ向かう夏は、トレーニングもしっかり計画通りできていて、とても順調でした。そして北海道での合宿が終わった後、実家でリラックスしながら、少し軽めの練習をしようという計画をしていました。 そんなある日、自転車の練習に行った先でたまたまスピードメーターが緩んでいました。信号で止まろうとスピードが遅くなったときに直そうとしたら、車輪に指が入ってしまって指を切断してしまいました。そして病院に運ばれ、6時間の大手術を行い、動脈、静脈4本をつなげました。その時たまたま運ばれた病院に専門の先生がいらっしゃったので本当に幸運でした。
実は手術の前「つなげて治るまでにどのぐらいかかりますか?」と先生に質問をしたら、「1週間は点滴をしなければなりません」と言われました。 「しっかり神経が通るか、血管が通るかというのをチェックして、もし通らなくて腐ってきたら再手術になるので、温めながら点滴をしなければならないのです」と言うのです。
その時「そうなると治るのも時間がかかるから、どうしようかな、オリンピックに向けて、切断してしまおうかな…」という考えもありました(笑)。 でも、もしオリンピックで結果が悪くて指がなかったらすごく嫌だし(笑)、指がなくなったからと言って結果がいいとも限らない。しかも先生は名医だと聞いている。看護師さんたちも「良かったね」と何度も言ってくれるから間違いなく大丈夫だろうと思い「やっぱり、つなげてください」と言いました。今となってはその決断で本当によかったと思います (笑)。
手術後は、富山から会社の社長、山梨からスケートの監督、札幌から昔のコーチ、町の人、そして家族など病室にたくさんの人が来ていてびっくりしました(笑)。トリノオリンピックの年なので、周りの方々も心配だったと思います。それが9月でした。
通常は10月の上旬からスケートに乗り始めるのですが、オリンピックの年は9月末ぐらいから氷上練習に入り、10月末には代表選考があって、代表は12月に決まります。1週間点滴しなければいけないのですから焦りました。 そのため、手術した次の日から、点滴をしながら自転車を回しました。 自分の病室の向い側にカンファレンスルームがあって、そこに病院にあった自転車を持ってきてもらい、点滴をしながら、軽くですが自転車を回しました。そこから毎日少しずつトレーニングを始めました。
みんなは9月末からは氷上ですが、そこにはもう間に合わないし、指の状態をチェックしながらですので、すぐには退院ができません。実際戻れるかというのも分からなくて、指の状態でどのくらいの強度で練習をしていったらいいかというのも手術してくれた先生との話し合いで決めていました。 先生としてもはじめての例ですし、普通の人とも違うというので、回復力も多分早いだろうとのお話でしたが、途中から病院のリハビリ室に自分の自転車を持ち込んで、室内で自転車を回せるようにしました。とにかく10月末のワールドカップ選考会に間に合わせないといけないので頑張りました。
また、体力の維持をしつつ、すぐ氷上に入れるようにしたかったので、午前中は自転車を、午後は母にローラー場に連れて行ってもらって、ローラースケートを滑っていました。指を下に下げてはいけないので、指を上げたまま1日4時間ずつ練習しました。 そのお陰で10月中旬には、みんなと普通に滑れるような状態に仕上げることができました。 そして、10月末のワールドカップ選考会もしっかり勝って、ワールドカップに出場し、その年は12月に日本記録を更新しました。でも、まだ世界で勝つまでには全然およびませんでした。 さらに、トリノオリンピックの時は全然調子が良くありませんでした。
ソルトレイクシティの後に「今度は世界で勝つぞ」という気持ちで行ったオリンピックで、日本選手の中で5種目8レースに出場できたことは素晴らしいことですが、一度も表彰台に上がれませんでした。 それでもオリンピックで滑れるという喜びを感じながら全力で滑ろうと思い、気持では狙っていました。こういうふうにオリンピックで滑れる素晴らしさというのは、そこで滑った人間にしか分からない感覚があるように思います。
とにかく「全世界がここを見ているんだ」という場所に自分が立てていることがエキサイティングで、それを何度も味わえるということは本当にありがたいと思います。そういう場所に立てている素晴らしさを、そこで感じることがすごく大事だと思います。それで、5種目8レースする中で、自分の思うような結果は出せなかったけれども、全力を尽くしてやりました。
チームパシュートという競技がトリノオリンピックから導入されて、その時「もしかしたら私の大好きなメダルを取れるかも知れない」という3位決定戦までいきました。もう個人では取れないかもしれないし、オリンピックのメダルを取るということはどれだけ大変かというのを本当に身にしみて分かっていたので「チームパシュートで取れたら」という期待を持ったのですが、1人が転んでしまって、駄目でした。 5種目8レース目の最後の5,000メートルはもう気持ちも体もヘトヘトでした。 でも「滑らなければ駄目。最後の最後まで頑張り切れるのが私なんだ!」「それを日本で応援してくれている人に見せなきゃいけない。残す5,000メートルを頑張ろう」という思いが湧いてきたら、体が回復してきて、結果8位に入賞することができて良かったです。
バンクーバーオリンピックへ
バンクーバーのオリンピックに向かう道のりでは、多くの方々にお会いしたり、話を聞いたり、テープを聴いたり、本も読んだり様々な経験をしました。 ある冬のシーズンに、ふと「私はメダルがほしいんだ」という気持ちがより強く湧いてきて、そう思ったら、気持ちがグッと入ってきて集中力がバッと増してきました。
かつて何度か表彰台の一番上に立った時の気持ちをもう一度味わいたい、その瞬間だけは自分より上がいない、という感覚をまた味わいたいなという気持ちに高まっていきました。 バンクーバーのときは、とにかく自分のモチベーションを上げるために、わがままをいっぱい言わせていただきました(笑)。
選手は結果を出すためのわがままならいくらでも言ってもいいのですが、その分「何が何でも結果を出さなきゃいけない」という気持ちになります。私の場合は「絶対に個人種目の1,500メートルで結果を出す!」という気持ちで、スタッフ、トレーナー、コーチにも、いろいろな意味でわがままをいっぱい言わせていただき、本当にいい状態でバンクーバーオリンピックを迎えることができました。
バンクーバーの直前は調子が上がり、1週間前のタイム計測では、とても速いタイムを出していたのですが、本番では結果を残すことができませんでした。 これだけ「絶対に結果出す」と思って、皆さんにいろんなことをしていただいたのに「私は何をやっているんだ」と思いました。
その時は宿舎にいられなくて、ランニングコースをボーッと歩いたり、また、選手村の高層ビルの上層階の宿泊だったので「ああ、ここから飛び降りたほうが楽だな」と思い詰めたりしていました。 監督には、顔も見られないぐらいにボロボロ泣きながら「4年間皆さんにこれだけのサポートをしてもらったのに、本当に自分はどうしたらいいか分からない」という気持ちをぶつけました。
その時監督は「誰もお前を責めていない。責める必要がない。とにかく笑え」と言いました。だいぶ泣きまくって、ちょっと落ち着いたときに監督の顔をはじめて見たら、泣いた後に笑っているというような顔をしていました。そのとき「私、やっちゃったな」と思いました。
そして私も辛いけど、監督も本当に辛かったんだなということに気づきました。 そこから2日ぐらいインターバルを置きました。みんながすごく心配してくれているというのが分かっていたのですが、何も声を掛けられませんでした。 パシュートがひかえているのもあって、かなり心配をしてくれていたようです。パシュートはメダルが狙える、でもそこでリーダーの私が落ち込んでいるからまずい・・・と周りはそんな感じだったと思います。
私が2日ぶりに氷に上がると、レースが終わった選手も、金メダルを取った選手も次の世界選手権に向けて滑っていました。その様子をみて「メダルを取った選手も滑っている…」と私も彼らと同じ場所でスケートを滑れるということに幸せを感じました。みんなスケートが好きなんだと思いました。 そのお陰で「今日、この氷に上がれるってすごく幸せだ」と、パシュートまでの3日間、毎日そういう思いで氷に上がることができました。
パシュートのレースは3レースを2日間でやりますが、初日は1本で、2日目が準決勝と決勝だったため、準決勝が終わった時点でみんなの足がパンパンで、それをどうリカバリーするかというのがとても重要でした。マッサージをしてもらったり、みんな個々それぞれの調整をやって臨みました。 とにかく最後は、もう全力全開で行こう思っていましたので、良いタイムで、そして負けても勝っても、いい勝負をしたいという思いでした。
最後の相手はドイツでした。ドイツは強豪で、負けても銀メダルですが、かといって大差で負けたくないと思ったのです。 結果は最後、ちょっとの差で負けてしまいましたが、銀メダルを取れました。 でも、やはり勝てば金メダルだったので、最初は悔しさがすごくありました。 後輩たちもつらかったと思います。だから、銀メダルを取ったことに対して私が喜んだら、多分彼女たちも受け入れるんじゃないかなと、とにかく私はうれしいということをアピールしました(笑)。
悔しいという思いよりも「良かった」と褒めてあげなきゃと思いました。 それは後輩のためもあったし、自分のためでもあります。自分もそっちのほうがいいんだというふうに思ったら、きっと後輩にも伝わるのではないかなというのもありました。 そして表彰式のセレモニーで並んでいるときに、ある方に「たばっち、メダル取れて良かったなあ。ほしかったもんなあ」と言われたときに、涙がバーッとあふれてきてしまいました。表彰式の係の女性に「泣くのはまだ早いよ」と言われましたが(笑)。
そして表彰台の上に上がったときに思ったのが「この感じ、私がイメージしていた通りだ」ということでした。実はこの表彰式をずっとイメージしていました。本当は個人種目で、最上段を思い描いていたのですが、表彰台に上がって、メダルを掛けて、日の丸を見ながら君が代を斉唱するまでを朝と夜にイメージしていました。それがまさに同じだったので、そんなに珍しい場所とは思えませんでした。だから表彰台の上ではむしろ涙がでませんでした(笑)。
でも気持ちは「本当にうれしい!」という思いでいっぱいでした。そのとき小学校の2年生の個人種目で駄目で、リレーでメダルを取ったときのことも、思い出していました。
自転車への挑戦とソチオリンピックに向けて
バンクーバーを終わって、現役を続けるか続けないか、またその他いろいろな道がありましたが、自分は何が一番したいのかと思ったら、現役を続けることが一番でした。
しかし「続けてもいいのかな?」という気持ちもあって、そのためには今まで以上の体にならないとできないと思いました。現状維持だと今より下がってしまうし、今以上に自分の力を伸ばせるという体がないと駄目だと思いました。
実は、体は1年間の食事改善でガラリと変わり、ランニングでも自己ベストが出ていました。そして10キロのマラソンでも、社会人1年目から走ってきて、たまたま出したベストタイムより1分早くなっていました。 そこで体力面での自信を自分で確認し、現役続行を決意しました。
そして選手生活を続ける中で、毎年同じことをやっているようでも、必ずその年ごとに何かを変えてみます。今までもトレーニングの内容を変えたり海外へ行ってみたり、いろんなことを試してきました。
そのころ、ちょっとずつ変えることはいつでもできるけれども、少し大きな変化をつけてみようかなと思っていて、そのひとつが1回スケートから離れることだなと漠然と思っていました。
そしたら橋本会長に「自転車なんていいんじゃない?」と言われたんです。 後日改めて話を聞かせていただいたら、すぐにでもやりたくなってしまいました。 それで、とにかくやってみようと2年間はロンドンオリンピックを目指してチャレンジしてきました。その間、怪我もしましたし、また多くの方に出会いお世話になったりしました。 自転車競技を極めていくということは、やはり簡単ではありませんでしたが、始めてから1年2年で、この世界で戦うことができたというのは、本当にいい経験になりました。 しっかりと段階を追ったトレーニングメニューも出していただいて、自分の中でもパワーが上がってきて、しっかり数値にも出てきたりしました。
自転車は、ギア比を決めないといけないとか、重たいギアでいくのか軽いギアでいくのかなど、すごく難しい競技です。 最後の最後の試合で、しっかり今の状態のベストというギア比を決め、タイム設定をし、今までよりベストな状態で挑んで、ある程度自分が思ったようなレースができました。
ロンドンは駄目でしたけれど、「体が2つあったら自転車もスケートもやりたいぐらい!」 という気持ちで自転車を終えられて本当によかったです。終わってみて、自転車でもまだまだやれることがあるし、やりたいことも、可能性もいっぱいあると思っています。でも次のソチオリンピックに行くまでの2年間と決めてやってきたので、やりきったなという感じはあります。 それに、このチャレンジが、今後の競技や自分の人生にすごく生きてくるのではないのかなというふうに今は思っています。
やはり常に頭の中でスケートのことも考えていましたので、どういう結果が出せるかはこれからですけれど、ただ、自転車にチャレンジをしたお陰で、今までとは違う考えや姿勢、目線からスケートを見られるようになっている気がします。 その上で、ソチオリンピックに向けて厳しいトレーニングを今まで以上にやっていかなければいけないのですが、考え方が変わったからと言って、簡単に強くなれるものでもないですし、これからも自分との戦いです。
今は、これから自分はどこまで行けるか?というチャレンジのスタートを切ったところです。それは、本当に厳しいトレーニングをどれだけできるかということになるのですけどね(笑)。